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鴻臚館の発掘
1995年だったでしょうか?福岡ドームが出来たのは。
それで今まで使用していた平和台球場を、取り壊すことになりました。
解体作業をしてるとき、土の下から出てきたのが「鴻臚館の遺跡です。」
鴻臚館は、太宰府の外交貿易を担当して、
外国の使者や渡海してきた僧の宿泊施設として、作られたものです。
前進は筑紫館と呼ばれていた迎賓館です。
大化の改新後には仕事をしていたとみられる。
鴻臚館は「三代実録」に太宰府から、二駅のところにありと書かれていることから、
鴻櫨館の存在は早くから知られていましたが、
どこにあったかは謎でした。鴻櫨館の所在地を特定したのは、
中山平次郎氏です。
万葉集などの文献や瓦など遺物を根拠に,
福岡城内にあったことを証明しています。
昭和63年、当時の桑原福岡市長は、鴻臚館から発掘された、
青磁器や中国の銅貨などを、目の前にして、マスコミのインタビューに、
「鴻臚館は国際交流の原点。福岡市の発展の起点として、福岡市は
いうに及ばず、国民共有の重要な遺構と考えます」
と、熱っぽく語っておられます。
二週間後の会見では、
「千年の眠りから目ざめた遺物をこの目で見て、
これこそ国民の財産と直感しました」
とも、語っておられます。
鴻臚館は、博多を中心とする北九州の外交,
貿易をどのように発展したのでしょう?
どうも、倭国と新羅の関係が問題になります。
七世紀に新羅は百済と高句麗を攻めて統一国家を作っています。
その後より、戦後処理で唐と、折り合いが悪くなり、
日本に友好を求め盛んに使者を送っています。
八世紀末までに、新羅から派遣された使者は、
大和朝廷や太宰府に挨拶に行っていますが、
鴻臚館に滞在した使者もかなりの数にのぼります。
例をあげると、天武天皇八年(679)10月に来た新羅の使者は、
帰国までの八ヶ月間滞在しているし、
その他の使者も、ほとんどが数ヶ月間滞在しています。
当然ですが日本からも新羅に遣使しています。
天智天皇、天武天皇、持統天皇の時代の二十八年間に,
新羅から二十二回、日本から九回、派遣されています。
七世紀後半は律令の上でも重要な時期でしたし、
この時期に母国の唐に遣唐使を送らなかったのは何故かという
大きな研究課題があるようです。
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鴻臚館跡展示館 |

鴻臚館跡展示館周辺 |
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